2021/03/31 00:30
ちょっとした記録として、書き残したいと思って書いています。
私はある時から、自分の感情と行動を分けて考えるようになりました。
感情っていうものは、とても不安定で、不明瞭で、無責任なものだからです。
そんなものに任せて動いたり判断したり喋ったりすることが、どれだけ危険で愚かなことなのか。
喜び、悲しさ、怒り、全ての感情においてです。
感情的になっている時、それは本来の自分ではないと思っています。
「喜んでいる自分」「悲しんでいる自分」「怒っている自分」を、
外側から見るという作業(訓練)をあえて続けてきました。今では無意識にしています。
それで何が起きた・変わったかというと、「無感情」の自分に出会いました。
無感情であるから、出来事の事実だけを感情フィルターを通さずに見ることができるようになりました。
出来事の事実だけを見ることができるから、その問題の本質を見ることができるようになりました。
本質というのは、感情とは真逆で、人間味がなくて味気なくて冷たく厳しいものです。
一方で、とてもシンプルで分かりやすくて、問題解決に必要なもの。
その作業を繰り返して、その物の見方が身についた今、思うことは、
そういうふうに物事を見れている人がどれだけいるのか、ということ。
多くの人が、感情に任せて物を言い、行動し、悩んでいるように思います。
感情の中心にはいつも、「自分のことが可愛い自分」がいます。
「可愛い自分」の感情なんか、無責任なもので、
明日になったら忘れているし、ある意味、忘れるべきだと思います。
そんな感情に騙されて従って生きているなんて、他人の人生を生きているようなものとさえ思います。
感情を高ぶらせて共感を得ようとするメディアビジネスとか、
弱みに漬け込むような悪徳な組織とか。
人の感情を利用しやすいことは簡単に理解できます。
「無感情」というと、サイコパス的なものを連想するかも知れませんが、
近いかも知れないなと思います(危険な判断をしない点等で違います)。
問題に対して本質を見て最短距離で考えたり、効率の良さが最優先だったり。
実際に、無感情の状態って気分の起伏も本当に少ないと思います。
嬉しい、悔しい、悲しい、怒り、など全部の感情が薄くなったなと感じます。
そういう点では、なんだか人生が薄味になったような気もしてきます。
感情を持つことが良くない、と言っているわけではないです。
間違いなく感情は人生に色を持たせるものだと思います。
その瞬間はもちろん、過去になっても
友達や家族と共有できるものでもあると思います。
今思っている「やりたいこと」は本当にやりたいことなのか?
感情を無しにしても、やりたいと思えることなのか?
「人に良く見られたい」「人より上に立ちたい」「居場所が欲しい」
そういった感情を全て排除しても、やりたいことなのか?
私は今までも、そして今後の判断全てにその問いを繰り返していきます。
そうして残ったものだけが、もはや「やりたいこと」ですらなく、
「やるべきこと」だと思います。
自分のことを、「冷たい人間だ」と思うこともしばしばあるけど、
きっとこの思考から変わることはもう無いと思います。
今の私には、小さくてもやるべきことが見えていて、
そこに、海に行く時間と仲間と関わる時間があるだけで、
シンプルで、贅沢だと思えます。